埼玉県春日部市「田植え前の仕事2020年4月7日撮影

 

 田植えと稲刈りは米作りのハイライトだが、そこに至るまでの作業はあまり目にしない。苗つくりの様子を紹介したい。場所は埼玉県春日部市の南部で、大落古利根川(おおおとし)と元荒川に挟まれた薄谷(すすきや)地域で、4軒が稲作を行っている。標高は6m。話をしてくださった青柿敏夫さんは、自家消費用に野菜と米を栽培している。水田は9反(90アール)。

 4月7日、朝、ビニールハウスの中には昨夜のうちに苗箱が並べてあった。2列を一組に、3列で合計6列。1列は30枚の苗箱だから全部で180枚。苗箱の下には保水のために黒いビニールが敷いてある。写真のように、種播機で種籾を播き、その上に覆土する。種籾は36キロ用意した。単純計算で一箱に200グラム。品種は富山産のコシヒカリで、農協から購入した。昨年までは自家製の籾を使っていたが、天日干しに代わり乾燥機に切り替えたので籾の質が落ちるから、とのこと。

 苗箱はプラスチック製の浅箱で、中にマットが敷いてある。以前は土を使ったが、軽く、田植えの時に根を外しやすいマットに切り替えた。種籾をまく前、朝6時にマットに水を撒く。この仕事は奥さんの役割で、一般家庭が水道水を使う前に済ませておく。覆土に使う稚苗用の土は、1列で1袋、これを2回かける。播機はうまくできていて、プラスチックの箱の外枠を噛みながら進む。外径は30×60センチ。大人3人で9時半ごろに籾播きと覆土作業は一段落した。この後、土のかかり方を調整し、保温と保湿のために白いウレタン製のシートを二重に掛ける。

 実はこれ以前に種籾を水に浸し発芽を促す準備をする。7日から10日浸した後、シートで覆い温室内に置いておくと2日ほどで種に小さな白い芽が出る。この籾を播いていたのだ。

シートを外すのは1、2センチほど伸びた1週間後である。この間、水やりは1回程度。室温内は28~30度に保つ。4月の25日ころに代掻きをし、田植えは5 月2日を予定している。その時には苗は20センチぐらいに成長している。

【計算してみよう】苗箱は反当たり20枚必要。それが10月には450キロの米となる。では、コメの収穫比は。 

 

※写真の右側が覆土後、左の色の薄い方が種籾だ。

                                                 (東京地教研 石田 素司)

 


 

ラオス「ラオスを走る中国の鉄路」2019年12月31日撮影

 

 ラオスにも鉄道があるのをご存知だろうか。タイ東北部の国境のノーンカーイから、メコン川をまたぎ、ラオスのターナレーンまでの5kmほどで、所要時間約8分の単線である。中間地点は橋の中央でそこに国境がある。2009年開業なので10年の歴史ということになる。19世紀末に宗主国のフランスは、最南部のメコン川中州の島々のうち、コーン島とデット島との間に物資輸送のための鉄道を敷設した。この鉄道も第二次大戦後に廃線となったので、60年以上ぶりの鉄道復活であった。

 このタイとラオスを結ぶ鉄道は首都ビエンチャンまで延伸の予定だったが、計画は中断されているらしい。その最大の理由が、中国国境からビエンチャンまでの鉄道建設がすすんでいるからである。

 雲南省のシーサンパンナに接するボーテンから、世界遺産のルアンパバーンを経由してビエンチャンに至る総延長414kmに及ぶ鉄路となる。衛星写真を見ると、北部の山地をつらぬき、ルアンパバーン、ヴァンビエンを経由してビエンチャン平野に至る鉄道建設が進んでいる様子がよくわかる。中国との国境を起点に記したのは、一帯一路構想に組み込まれた中国資本による建設だからだ。雲南省では玉渓から国境までの鉄道建設をすすめている。完成すれば、ラオスは中国の巨大な物流ネットワークに組み込まれることとなる。そして、東南アジア大陸部と中国南部を結ぶ「南北経済回廊」の役割が強化されることにもなる。

 昨冬に、ビエンチャンとヴァンビエンとの間をバスで移動した。幹線道路に並ぶように工事が行われている。そこでは周囲の照葉樹の林が伐採され、亜熱帯特有の赤土がむき出しになっていた。周辺の木々の葉は、その赤土によって変色しているほどだった。乾季の間はその風景は変わらないだろう。そして、建設現場とその周辺には中国語の看板があふれている。

 

                                         (神奈川県立横浜緑ケ丘高校 吉村 憲二)

 


長崎「軍艦島(端島)」の今 2014年4月14日撮影

 

  4月12~14日に沖縄平和ネットワーク首都圏の会、地教研共催で長崎・軍艦島ツアーを20名の参加で実施した。

 初日は午後から平和公園~浦上天主堂~原爆資料館~岡まさはる平和資料館で谷口稜曄さんの被爆体験講演。二日目は市内神ノ島の軍事遺構、三菱発祥の地である高島見学。三日目に軍艦島コンシュルジュの船で島に渡った。軍艦島はブームであり、四社が航路を持っている。

 長崎は「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」を世界遺産に推す動きを先行させていたが、〈日本を誇りたい〉政府が「九州・山口の近代化産業遺産群」を逆転で推薦したという経緯がある。軍艦島は後者の産業遺産群を構成しているが、4月末に当確となった 「富岡製糸場と絹産業遺産群」と比べ、40年余り放置していたという難点がある。富岡は経営していた片倉工業が87年の操業停止後も施設維持のために経費を負担して

                                   いたが、軍艦島は近年、突然着目されている。

 92年(神奈川県教委と沖縄修学旅行の交渉が成立せず、代案)の長崎旅行の際に、86年に閉山したばかりの高島を20名ほどの生徒が自主行動で見学し、町ぐるみで大歓迎していただいている。その高島も05年に長崎市と合併している。

 軍艦島は建造物の崩落があり、見学コースは市が整備した外周の一部である。船会社のガイドは巧みだが、強制連行された朝鮮人・中国人労働者などについてはさらりと流す程度であり、観光ガイドに特化している。船会社に渡航の主導権を握られており、独自の平和学習を組み立てにくいが、長崎に再び着目しても良い時期かもしれない。

                                                (大学非常勤講師 柴田 健)


 

ノルウェー「ボルグン・スターヴ教会」2013年08月18日撮影

 

 オスロの北西約300㎞にある人口2,200人の田舎町ラルダール(Laerdal)から車で30分程東に行くとボルグン(Borgund)という小さな村がある。

 そこにあるのがバイキング時代に建設された、木造支柱式建築のボルグン・スターヴ教会である。教会の名前の由来は、この地方の建築工法「支柱」=「スターヴ」がもとになっている。釘が使われておらず、五層のこけら葺き屋根となっている。  

   ノルウェー独特のこの木造のスターヴ教会は、ヨーロッパ諸国に1130年から1350年の間に千棟以上建てられ、1349年のペスト流行によって建築に終止符が打たれたといわれている。現在残されている教会は28棟のみと言われている。魚や船を連想させる不思議な木造建築である。

 ボルグンは最も有名なスターヴ教会であり、オスロからソグネフィヨルドに向かう途中の幹線道路沿いにある。

 ウルネス・スターヴ教会は世界文化遺産に登録されている唯一のスターヴ教会である。ソグネフィヨルドの最深部から枝分かれしたルストラフィヨルドの小村にあり、交通は非常に不便である。日頃、世界遺産はヨーロッパの価値観で指定されていると語ってはいるが、この施設は納得できる建造物である。世界遺産、オリンピックなどがヨーロッパの価値観で運用されていることは自明だが、今回訪れたスターヴ教会は世界遺産登録の意義があるといえるだろう。国内では「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」の世界遺産推薦が、土壇場で政権の【栄光の日本】志向からか「明治日本の産業革命遺産 九州・山口と関連地域」に切り替えられている。

                            権力に抵抗し続けた隠れキリシタンの価値を再発見したいものである。

                                                (大学非常勤講師 柴田 健)

 


 

埼玉県「シャンツァイ・バクチー・コリアンダーそしてダニヤ2013年7月撮影

 

 近所の八百屋さんの店先に、見慣れぬ文字の看板を見つけた。「これは?」と聞くと、奥にある野菜を指さしてくれた。香草であった。地中海東部沿岸地方が原産のコリアンダーは、中国ではシャンツァイ、タイでバクチーとよばれ、アジア料理に欠かせない香辛料である。苦手な人はカメムシの臭いというが。看板の文字はダニヤと読むそうだ、パキスタン公用語のウルドゥ一語である(右から読む)。

 東武スカイツリー線一ノ割駅手前に、緑青色に塗られた4階建の建物がある。玉ねぎ型の屋根はないものの、イスラムカラーと上辺が丸い窓でマスジド(モスク)とわかる。1991年創建の「一ノ割モスク」は、日本に60ほどあるマスジドの中で5番目の古さである。

 ムスリムにとって金曜昼の礼拝は、大切である。この日は、マスジドで祈りをささげ、イマーム(導師)の説教を聞く。一ノ割は一ときではあるが週に一日、ムスリムであふれる。モスク近くのスーパーMの駐車場は、12時半ごろから満車になる。駐車場を利用したムスリムの車は39台であった(5月3日)。プレートは、春日部が3分の1ほどで大宮、所沢、野田が多い。車から降りる人の服装は、白あるいは黒の民族衣装の人もいるが、多くは普段着である。3組が子ども連れで、女の子を連れていたのは1組だけであった。「一ノ割モスク」には、女性の礼拝場所がないので、この子は、ただ一人の女性であったであろう。

 さて、礼拝帰りのムスリムは、果物や野菜を買って帰る。普段は三、四把しか売れないダニヤが、金曜は50把売れるという。ちなみに生産地は、静岡県であると聞いた。                                 (東京地教研 石田 素司)

 


 

北海道「色丹島の高校生たち」2009年8月2日撮影

 

 色丹島の主権がソ連(ロシア)のものになってから、70年が経とうとしている。日本はこれまで四島一括返還を求め続けているが、実現する見通しは薄い。しかし、現在では現実的な解決策を見いだそうという意見もみられるようになっている。日本への返還の動きが進むとすれば、その最前線に立たされるのが色丹島の人々である。色丹島には2009年1月の時点で約3200人のロシア人が居住している。

 2009年8月に、当時の勤務校の生徒とともに、ビザなし交流で色丹島を訪問した。二日間の訪問であったが、学校訪問だけでなく歓迎会や送別会にも現地の高校生が参加してくれて、訪問団の生徒たちとの交流を深めてくれた。色丹島の学校は穴澗(あなま)地区にひとつあるだけである。校舎は2006年に新築されたもので、2009年の時点では1~11年生までの101名が学んでいた。校舎は廊下が広く、ホールや特別教室などが完備しており、暖房はセントラルヒーティングなど、施設の充実は予想をこえたものである。モスクワから見て「最果て」の地に100名程度の生徒のため、これだけの施設が建設されているということは驚きであった。

 高校生たちは、日本との関係をどのように考えているのだろうか。高校生たちの中には、ビザなし交流で日本を複数回訪問している生徒もいる。また、学校内には日本語クラブがあり、簡単な日本語を話せる生徒もいる。色丹島は、択捉島や国後島に比べて親日的ともいわれる。しかし、自分たちの生まれ育った島が、その帰属で揺れ動いているという現状に対して穏やかでいられるわけはない。通訳を通じて高校生の話を聞くと、あまり考えていないとの答えが返ってきたが、そこから複雑な思いが伺えた。ただ帰属はどうあろうが、色丹島は彼らのふるさとであり続ける。                            (神奈川県立寒川高校 吉村 憲二)